お野菜「フダンソウとビート」・・・その2

フランス大革命前夜、フラソスはアンティル諸島の植民地のおかげでイギリスに次ぐヨーロッパ第二の砂糖生産国となり、砂糖売買で大儲けしていた中世のヴェネチアのような存在になったといいます。

しかし、イギリスがナポレオソの大陸支配権に抗して、一八〇六年五月十六日に大陸の封鎖を宣言し、フラソスの港への船舶、とくに砂糖運搬船の入港を禁止しました。

これに対してフランスも反撃し、イギリス製品のボイコットを決定しました。

それが一八〇六年十一月二十一日に発令された、いわゆるナポレオンの〈大陸封鎖〉です。

だが、それでもイギリスの砂糖はフランスの領土に秘密裡に入りつづけるし、フランスの船もイギリスの封鎖の裏をかきつづけます。

要するに、双方の封鎖とも、かなりのていど"ざる"だったわけです。

お野菜「フダンソウとビート」・・・その1

ビートの根には庶糖(砂糖)が含まれています。

薦糖はドイツの化学者マルクグラーフが一七五七年にサトウキビから発見した糖だそうです。

薦糖すなわち砂糖は、中世には香辛料に分類されていました。

アラブ人たちが今のリビアにあたるトリポリタニアでサトウキビを大規模に栽培しているのを、十字軍の兵士たちが見つけ、サトウキビの汁を煮つめたあと壷のなかに残る"白い塩"の結晶を砂糖と名づけました。

当時、砂糖は貴重で高価なものでした。

一方、蜂蜜は豊富に存在し、値段も安く、古代からふつうに使われてきた甘味料だったそうです。

菓子やケーキなど、さまざまなものの甘味料として、砂糖が蜂蜜の代わりに使われるようになるには、なお長い年月が必要になります。

しかし今では蜂蜜の方が高価だったりしますよね。

有名は蜂蜜は一度は口にしてみたいものです^-^

小さな星よ、お前はどこに

「小さな星よ、お前はどこに」は、ムソルグスキーの最初の歌曲です。

18歳のときに作られた曲ですが、すでに彼の個性を感じられます。

Hoshiyo.jpg

とても美しいメロディで、悲しくて幻想的。

作詩はグレーコフが担当しています。

おまえはどこだ、小さな星よ、ああ、おまえはどこだ、輝きは?
黒い雲に覆われてしまったのか
黒い雲、陰鬱な雲に?

おまえはどこだ、少女よ、おまえはどこだ、可愛い娘よ?
この誠実な友をおいて行ってしまったのか
誠実な友、恋人を?

黒雲は小さな星を隠し
冷たい大地は少女をさらっていった

感傷的なメロディも詩も、素晴らしい曲です。

歌劇 「ボリス・ゴドゥノフ」

若くして世を去ったムソルグスキーの残したオペラの中で、唯一全曲が作曲者自身の手によって完成された作品です。

この大作は人気の根強いオペラで、今までには映画化もされています。

Bolis.jpg

これは1954年に作られた、ヴェーラ・ストロエワ監督、A.ピロゴーフが主演した映画。

50年代最高のボリス役者として名高かった伝説のA.ピロゴフや、ボリショイ劇場の大スターたちが勢ぞろいしてます^^

とても豪華な顔ぶれの、壮麗スペクタクル巨編になってます。

ムソルグスキーの最期

ムソルグスキーは、1881年の初頭に4度の心臓発作に見舞われました。

彼は入院させられ、その状況は絶望的でした。

この頃、イリヤ・レーピンによって有名な肖像画が描かれています。

-RepinMussorgsky.jpg

これが、ムソルグスキーの最期を伝えるものとなりました。

その後・・・

ムソルグスキーはやがて著名人のサークルと交際を始めますが、酒量が抑えられませんでした・・・。

身近な人の相次ぐ死も、ムソルグスキーに心痛をもたらします。ですがこの頃、ムソルグスキーの最も力強い作品『死の歌と踊り』が作曲されました。

文官としての仕事は、たびたびの「病気」や欠席のためにいっそう不安定になり、内務省に転職することができたことは幸運でした。しかも転職先では、ムソルグスキーの音楽熱が寛大に扱われました。

そして1879年には、伴奏者として3ヶ月間に12都市で演奏活動を行なうことさえ許されています。

しかし、1880年に公務員の地位を追われてしまいます。

ムソルグスキーの窮乏を知って友人たちは、『ホヴァーンシチナ』『ソロチンスクの市』を完成できるように寄付を集めようとしました。

『ホヴァーンシチナ』のピアノ・スコアは、2曲を除いて完成しており、仕上げまでもう少しというところまで達しました・・・が、完成には至らなかったんですね。

ボリス・ゴドゥノフ

1874年の『ボリス・ゴドゥノフ』の初演まで、ムソルグスキーは「五人組」の合作オペラ『ムラーダ』

に関わり、このために『禿山の一夜』の合唱版を作ります。

そして歌劇『ホヴァーンシチナ』も担当するなど、意欲的に制作活動を行います。

『ボリス・ゴドゥノフ』は批評家のは悪評で、上演回数はたった10回程度でしかなかったのですが

聴衆には大好評で、これによってムソルグスキーの活動は頂点を極めたといっていいでしょう。


boris.jpg

しかし次第にこの頂点から転落の兆しが現れます・・・。

ムソルグスキーは友人のもとから押し流され、どうやらアルコール依存症だったのではないかと

思われる行動を起こしています。

さらに友人のヴィクトル・ガルトマンが死に、肉親やルームメイトのゴレニシェフ=クトゥーゾフ伯爵

も結婚して、彼のもとを去って行きます。

それでも1874年以降は『陽の光もなく』、『モスクワ河の夜明け』(『ホヴァーンシチナ』前奏曲)、

『展覧会の絵』が作曲されていますし、

歌劇『ソロチンスクの市』も担当して、『禿山の一夜』の、別の合唱版も制作するなど

音楽活動は意欲的に行っていたことがわかります。


破棄

結局、破棄されました・・・。

『結婚』を放棄した後、ムソルグスキーはボリス・ゴドゥノフの物語で何故かオペラを作曲するよう励まされます。

このためプーシキンの戯曲や歴史物語を集め、オペラ『ボリス・ゴドゥノフ 』を書き上げました。
1871年に提出されるが、歌劇場から上演拒否にあったそうで・・。
世の中そんなに甘くはないですね・・。

初稿では、明らかにプリマドンナ役がなかったからだったんです。
ムソルグスキーは改訂に取り掛かり、より大掛かりな第2稿を完成させ1872年に受理され、1873年にはマリインスキー劇場で抜粋上演が行われました。

ふぅ、何とかなりました!良かったです^^

『結婚』

『結婚』は、ムソルグスキーの自然主義的な曲付けにおいて極端な位置にあります。

この作品は第1幕の最後まで作曲されながらも、管弦楽法をされないままに捨てられたけれど、その典型的なムソルグスキー流デクラメーションは、その後のある限りの声楽曲において聞き取ることが出来ます。

自然主義的な声楽書法が、沢山ある表現原理の中で、次第にただ1つのものとなったそうです。
色々と変化があるものです。捨てられてしまうのにはもったいない曲です。

『石の客』

1866年よりプーシキンの原作歌劇『石の客』を作曲中だったダルゴムイシスキーは、テクストは「その内面的な事実が捻じ曲げられないように、あるがままに」曲付けされるべきであると主張して、アリアとレチタティーヴォをやめデクラメーションを良しとしました。あるがままに・・・曲でも現実でも大事な事です^^

『石の客』に影響されて、1868年に作曲された、ゴーゴリ原作の『結婚』の最初の11場では、戯曲の普段の暮らしの話し合いのイントネーションを、旋律線によって自然に再現することが優先されています。
こちらでも、あるがままにを大事にしているんですね。

管理人のお気に入り

  • ステッカー
  • 工業用ステッカー、包装用シール、食品ラベルまで、オリジナルにて、1枚から法人様向け大口枚数まで印刷・制作いたします。型抜きや特殊プリントのステッカー、シールも作成します。
中古車 買取

車の売却をお考えの方は中古車買取ジャイアントへ。

通販物流

発送代行や物流倉庫をお探しなら、ネットショップ専門の物流倉庫会社に無料で一括見積依頼できる「EC物流倉庫ナビ」!ネットショップ・通販梱包発送、発送代行、通販物流、出荷代行、物流アウトソーシングの業者を無料でご紹介します。

中古トラック
中古トラック販売、買取のトラックセンター鹿児島。民間車検工場完備で車検/板金/整備/架装などお客様のあらゆるニーズに対応いたします。

テント レンタル

イベント集会用テントのお届けレンタル。往復送料無料で配送いたします。