海の旅と歌 2
麻続王の経歴は明らかではありませんが、海人部との関連の深い人であったにちがいありません。
日本紀によれば天武4年、麻続王は因幡に、一子は伊豆に、一子は五島列島に流されたと記し、常陸風土一記には霞ケ浦の板来に流されたと伝えています。
そして万葉集ではこうして伊勢の伊良虜の島(現在の愛知握美半島の突端、伊良湖岬)に流されたといいます。
.三書三通りですが、いずれも海人部の分布の濃い土地であす。
この王の一族に関する伝えは海人部によって流布されたに相違いないでしょう。
三河の伊良湖岬を伊勢の国としているのも、伊勢湾が海人部の日本中央部における古くからの大根拠地であったからでしょう。
この二首の歌には、前の海の国見歌Lの雄大さとはややちがって、海辺漂泊の旅の寂莫感がただよっています。
この寂莫たる漂蕩感がまた、海上購旅の歌の一特色だといってもいいでしょう。
われのみや夜船は漕ぐと思へれば沖辺の方に樹の音すなり
波の上に浮寝せし夜何ど思へかこころ悲しく夢に見えつる
今よりは秋づきぬらしあしひきの山松かげにひぐらし鳴きぬ
旅にあれど夜は火ともし居るわれを闇にや妹が恋ひつつあるらむ
・・・これは天平8年に新羅に遣わされた使人たちの歌ったもので、特に一首口などは、夜の海上に舟を漕ぎつづける旅の心の敏感な細み、するどさを見事に凝縮させています。
その他の歌にしても、陸路をたどっている旅よりも一層深く思いつめた家族への心の通わせ方が見られます。
この天平8年の新羅への旅の歌は丹念に記録されていて、万葉集巻十五の前半にその旅の順序に従って収録されています。
ただ不思議なことに、歌の作られているのは壱岐・対馬までで、それから先の歌は無く、再び筑紫へもどって来てからの歌がわずかに残っています。
なぜ、異国を旅している日の歌が無いのでしょうか。