その後・・・
ムソルグスキーはやがて著名人のサークルと交際を始めますが、酒量が抑えられませんでした・・・。
身近な人の相次ぐ死も、ムソルグスキーに心痛をもたらします。ですがこの頃、ムソルグスキーの最も力強い作品『死の歌と踊り』が作曲されました。
文官としての仕事は、たびたびの「病気」や欠席のためにいっそう不安定になり、内務省に転職することができたことは幸運でした。しかも転職先では、ムソルグスキーの音楽熱が寛大に扱われました。
そして1879年には、伴奏者として3ヶ月間に12都市で演奏活動を行なうことさえ許されています。
しかし、1880年に公務員の地位を追われてしまいます。
ムソルグスキーの窮乏を知って友人たちは、『ホヴァーンシチナ』『ソロチンスクの市』を完成できるように寄付を集めようとしました。
『ホヴァーンシチナ』のピアノ・スコアは、2曲を除いて完成しており、仕上げまでもう少しというところまで達しました・・・が、完成には至らなかったんですね。