10歳のとき始めました

プスコフ州の地主階級に生まれ、6歳から母の手ほどきでピアノを始める。10歳のときサンクトペテルブルクのエリート養成機関ペーターシューレに入学。
ムソルグスキーは武官になることを夢見ており、13歳で士官候補生になるが、音楽は大切な存在であり続けた。1852年には父が出費して、ピアノ曲『騎手のポルカPorte-enseigne Polka』が出版された。
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プスコフ州の地主階級に生まれ、6歳から母の手ほどきでピアノを始める。10歳のときサンクトペテルブルクのエリート養成機関ペーターシューレに入学。
ムソルグスキーは武官になることを夢見ており、13歳で士官候補生になるが、音楽は大切な存在であり続けた。1852年には父が出費して、ピアノ曲『騎手のポルカPorte-enseigne Polka』が出版された。
2年間のうちに、ロシアの文化人との出会いを果たし、ダルゴムイシスキー、
スターソフ、バラキレフ、キュイとの出会いは重要であった。バラキレフの指導のもとに、
歌曲とピアノ曲などの習作を手がけるが、1858年に軍務を退役する。リャードフ少年に出会い、
モスクワ詣でにも出向き、同胞愛や郷土愛に目覚める。
ムソルグスキーは、バラキレフに師事して、ベートーヴェンなどのドイツ音楽を学んでおり、バラキレフの監督下に作曲された『4手のためのピアノ・ソナタ』は、ムソルグスキー唯一のソナタ形式を含む作品である。作曲を続け、未完成のまま放棄した歌劇『アテネのオイディプス』も、またピアノ曲『古風な間奏曲 Intermezzo in modo classico 』(1867年に改訂し、管弦楽化)も、やはり民族主義的でない。だが後者は重要な作品である。ムソルグスキー家は荘園の半分を収奪され、ムソルグスキー自身は、非常に多くの時間をカレヴォに過ごして、一家の突然の零落を何とか食い止めようとしたものの失敗した。
ムソルグスキーはバラキレフの影響力から自由になり、ほとんど独学するようになった。1863年から1866年まで、歌劇『サランボー Salammbô 』に取り組む。ペテルブルクに戻り、下級官吏として生計を立てる。ペテルブルクで、近代芸術や近代科学について読書し、議論を戦わせた。そのような影響のもとにムソルグスキーは、段々と「リアリズム」という理念を抱くようになり、社会の低層に関心を寄せた。再現やシンメトリーのある楽式を拒否し、「現実生活」の繰り返しのない、予測のつかない流れに十分に忠実であろうとした。
「現実生活」の衝撃は、1865年に母親が没すると、ムソルグスキーにはとりわけ苦痛に思われた。この頃から深刻なアルコール依存症の兆しが見え始める。しかしながら26歳のムソルグスキーは、写実的な歌曲の作曲を始め、1866年に作曲された歌曲『ホパーク 'Hopak' 』と『いとしやサヴィーシナ 'Darling Savishna' 』は翌1867年に、初めて自力で出版された作品となった。1867年は、『禿山の一夜』の初稿が完成された年でもあったが、バラキレフはこれを批判し、指揮することを拒んだため、存命中には上演されなかった。
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